1話:テイラースウィフトなら絶対に絶対にそう言う
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「気持ちがよかったセックスベスト3を発表します」
そう言ったのは25歳の私だった。
唐突にそんな断片的な記憶がよみがえってきたのには理由がある。
卑猥な会話をポップなノリで交わした彼にもらったBOSEのワイヤレスイヤフォンの片方を、満員電車ではめようとして紛失したことに気付いたからだった。
彼は私より1つ年下で、そのときは24歳だった。
東京の病院に務めている彼の自宅は埼玉の鴻巣にあって、広さも綺麗さも申し分ないわりに家賃は3万円と格安だったのを覚えている。
彼が元元元カノと同棲するときに買ったというダブルベッドで、元元カノが石原さとみに似ていたという話を聞いたあと、元カノである私は彼に復縁を持ちかける前置きとして、気恥しさを振り切って奇っ怪なランキングを提示した。
そのとき私が着ていたのは、ONE OK ROCKが2015年に開催したツアー(35xxxv)のバンドTシャツだった。
神聖なる参戦衣装をこんな形で着るなんて、もちろん不本意だ。
隣に並んでベッドボードに寄りかかっている彼もONE OK ROCKのバンドTシャツを着ていることを思い出して、思わず二度見した。
グレーを基調とした淡い色の組み合わせが何度見ても素敵である。あー、やっぱりそれも買えばよかったなぁなんて、この上ない後悔が背中にびたびたに張り付いてきた。
「3位 登戸のマンションのユニットバスでの2回戦目 2位 群馬の山奥にあるラブホで初めておもちゃ使ったとき 1位は、」
「あ、待って待って、あれでしょ、俺の実家のやつ」
「いやいやいや、それもよかったけど違う」
「えー待って、じゃぁ千葉の、海が見えるホテルのあれ」
「ちゃう、時間切れです」
「えー、ほかに盛り上がったのどれだろ」
「1位は、川崎のビジネスホテルで泥酔状態でしたセックスでした」
「あー、あれかあ」
彼は片手で目を覆うと、あのやけに湿度の高い部屋での出来事を手のひらに映してもう一度再生して視聴しているようだった。あれはたしかにすごかった、うん、あれは納得、と言いながら、口元がゆるんでいた。
彼の声に鼻が詰まったような、こもった響きが混ざり始めた。眠くなったの合図だ。
ふと2人とも話さなくなると、私たちがベッドに入る前からずっと部屋中を満たしていた音楽が際立って聞こえた。
BGMのいいところは、色の付いた空気みたいなところだと思う。
そのときはちょうどONE OK ROCKの『Heartache』が流れていた。
そしてその素晴らしさに私はやっぱり感動して、これまで温めていた大事なセリフをついぽろっとこぼしてしまう。
「やりなおそうよ」
そう言ってから私ははっとした。2回目の復縁も同じセリフを吐いたことを思い出した。
私が深夜1時の今の今まで言えなかったのは、彼の反応にビビっていたことと、もう一つ。
私たちは寄りを戻さないほうがいいんじゃないかって、もう前に進んだほうがいいんじゃないかって、頭だか心だか体だかのどこかで思っていたからだ。テイラースウィフトなら絶対に絶対にそう言うに違いなかった。
けれど、一度世に放ってしまった言葉は引っ込められない。
彼は目を覆っていた手をお腹までずるずると降ろして、正面を向いたまま、わずかに瞳に反射する光さえも揺るがさずに言った。
「この先のことはよくわからないけど、今はひかりのことが好き。だから、もう一回、お互いがんばってみようか」
その瞬間、私は顔面に喜びが浮かび上がって来ないように唇に力を入れて堪えた。
復縁が叶った安堵と、また別れ損ねたことへの絶望みたいなものが胸の辺りに居座っている。
救急車の音が近付いてきて、一瞬だけ間近で聞こえて、また遠ざかっていった。
「ねえ、今度、池袋のプラネタリウム行こうよ」
そう言って彼はiPadをいじり始めた。
ブルーライトに照らされた横顔はどことなくTAKAに似ていて、やっぱり彼のことを手放さなくてよかったなあと思っていた。
*
こんなことは今さら言いたくないけれど、私は彼と付き合っているときの自分が好きだった。
彼がいなければ自分の価値が成立しないくらいの人だった。
私は思い出のせいでやる気を失い、そうするしかなかったこともあってドアに額をくっ付けて揺られていた。
彼はもう鴻巣に住んでいない。どこにいるかは知らない。私たちはSNSでは一切つながっていなかった。
登戸で乗車して渋谷まで20分弱。
下北沢駅で井の頭線に乗り換えると、湿気を含んだ空気が一緒に入り込んできた。ほどなくしてドアがしまる。もうすぐ雨が降ってきそうだ。じとっとした空気が重たかった。
再びドアに額をくっつけていると、車体がゆっくりと走り出す。
どんなに睡眠を取っても消えないクマのせいで、窓に映りこんだ私の顔は目が落窪んで見えた。
すると、自分の顔越しに、ホームの中ほどに立っている彼の姿が見えた。私が乗っている車両の中に何かを探しているような様子だった。
その手には黒くてゴツめのワイヤレスイヤフォン。親指と人差し指に摘まれている。
「え」
と思わず声と息が漏れる。電車がホームを抜けて行く、ほんの一瞬の出来事だった。
あれはたぶん、いや、絶対に私がさっき紛失したと思っていたBOSEのイヤフォンだった。